飯島建設株式会社

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令和3年度入社式社長挨拶 2021.4.1

 新入社員の皆さん、今日は入社おめでとう。
 期待と不安が入り混じる中、今日を迎えたことと思います。

 ただ、ここ長野市では新型コロナウィルス感染症の警戒レベルが5と言うことで、せっかくの晴れがましい門出なのにとても残念状況にあります。
 全国民のワクチン接種が完了し、一日も早く終息することを祈るばかりです。

 さて、せっかくの機会なので研修では話が出てこない当社の歴史について少しお話しましょう。
 創業は明治38年だと言われています。
 詳細は定かではありませんが、これは私の先祖が農業の傍ら、農閑期に当時の中央西線の敷設工事にあたり、足りなかった人手を現在の西松建設さんに派遣したのが建設業に携わった最初だと言う話しを聞いています。
 
 昭和に入り、先々代が兵庫県の明石市で左官職人としての修行をし、その後故郷の千曲市に戻り現在も営業を続けている左官業飯島組を設立。

 その後、昭和40年にゼネコン飯島建設が設立されました。

 当時は、高度経済成長の波にのり、戸倉上山田温泉の旅館・ホテルそして上山田町と戸倉町等の公共建築工事で実績を積んで行きました。
 しかし、昭和49年~50年にオイルショックが起こります。当時の1年分の売上と同規模の工事を受注した直後に資材が高騰し、当社が倒産すると言ううわさも相まって第1回目のピンチを迎えました。
 しかし、先輩たちはこのピンチを乗り切りました。

 その後訪れたバブル経済と長野オリンピック・パラリンピック景気の波に乗り、最高で135億円の売り上げを計上し、当社も急成長を果たしました。
 しかし、ほどなく起こったバブル経済の崩壊とオリンピック景気の終焉に加え、田中康夫県政と民主党政権の「コンクリートから人へ」との実に耳心地いいキャッチに煽られ、建設業は瀕死の状態に追い込まれるのです。当社もご多分に漏れず大変厳しい状態に陥りました。この時期、数多くの同業者の倒産も目の当たりにしました。

 そこから、現相談役で先代中川信幸社長を中心に再建計画を策定し断行しました。売り上げも1/4以下に落とし、住宅部門と福祉事業へ特化することで選択と集中を行った結果、多くのお得意先や金融機関の支援、そしてなにより役職員一丸となり、言葉では言い表せなほどの努力で、現在は実質無借金経営となり、2回目のピンチを乗り切りました。

 そして、当社として迎えた57期に今度は新型コロナウィルスのパンデミックがやって来ました。

 ポストコロナ、ウィズコロナが叫ばれていますが、この1年、ポストコロナ、ウィズコロナのテーマについて深堀し考えて来ました。

 今、おぼろげながらも導き出しているテーマは、「多様性へ多様な対応」。

 なんだかややこしい言い回しですが、ここで私が言っているのは社会的なダイバシティ―の多様性ということだけでなく、経済の流れとして大量生産も大量消費もあり得ない中、お客様のニーズもこれまでのように右に倣えの発想にはならないと思うのです。ですから、お客様の要望も細かく多様化するのでそれにしっかりと対応をする時代になるのです。

 この発想が間違っていなかったら、単に社会人経験が長いからと言って全てに対応できることにはなりません。ですから、場合によっては、逆に社会人経験が浅い方が先入観念にとらわれない対応がニーズに合うこともあるでしょう。
 また、その逆で経験が長い方がその多様性に対応できる場面ももちろんある。

 これが、グループとしてすでに始まっていますが、事業としても建設業だけにとらわれない、また、経験値だけにとらわれない多様な対応となるわけです。

 グループ社員が年齢や性別に関係なくお互いを認め合い「多様性へ多様な対応」をして行くのです。
 ですから、新入社員の皆さんも既に戦力なのです。
 ただし、決して慌てる必要はありません。焦らずに一緒に対応して行きましょう。

 さて、最後になりますが我が国には企業と言われる、要するに個人事業主を抜いた会社は何社くらいあると思いますか?
 答えは、240万社だと言われています。
 240万社ってすごい数じゃないですか?

 飯島建設と皆さんが出会えたのは240万分の1の奇跡です。
 毎年言っていますが、私はこの奇跡の縁を大切にして行きたいと思っています。

 今日を起点とするこれからの人生、豊かに、そして幸せにして行きしょう。

 今日は、入社おめでとう。

 以上です。

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